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東京地方裁判所 昭和33年(ワ)6845号 判決

原告 三浦一峰

被告 国

訴訟代理人 高桑昭 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事  実 〈省略〉

理由

第一、争いのない事実

原告(当時三才)が昭和三〇年九月六日、化膿性髄膜炎のため被告国の経営する東京大学医学部附属病院小児科に入院し、同病院に勤務する被告国の被用者である、医師時田源一、同福田保俊の治療を受けたこと、同月一七日、右福田医師が原告に対し、ルンバール(注、ルンバールプンクチオン、腰椎穿刺。化膿性髄膜炎の対症療法)を施し、その後原告は嘔吐、けいれんの発作等を起こし(詳細については後に判断するが、以下同日のルンバール後の原告の病状の変化を総称して「本件発作」と略記することがある)、以後引続き同病院で治療を続けたが、同年一一月二日、右半身のけいれん性不全麻痺、性格障害、知能障害及び運動障害等を残した欠損治療の状態で同病院を退院したこと、退院後も原告は諸種の治療に努めたが、現在においても知能障害、運動障害等が残つている状態(障害の程度については争いがある)にあることは当事者間に争いがない。

第二、事実の経過

そこで進んで原告の主張するような不法行為が存在するか否かについて判断するのであるが、その前提として原告の入院時の病状及びその後退院し、現在に至る経過について先ず認定する。

〈証拠省略〉を総合すれば、次の事実を認めることができる。但しこれらの証拠のうち右認定に反する部分は措信せず、他に右認定を左右するに足りる証拠は存在しない。

一、原告の入院時の病状

(一)  原告は昭和三〇年九月六日午前一〇時頃、本件病院に入院し、直ちに時田、福田両医師の診察を受け、さらに同小児科主任教授高津忠夫の診断も受けたが、入院直後の症状は、意識障害の前駆的症状、悪心、発熱があつたが臨床症状としてはさほど重い状態ではなかつた。その後、午後にかけて嗜眠、傾眠状態を呈するようになり、さらに夕刻にかけて呼吸、脈膊が促進し、同日午後九時頃より両側眼瞼にれん縮(注、一部の筋肉がピクピクすること)が現れ、眼球が上方に飜転し、項部強直、後弓反張(背中が海老のように後方にそる状態)を示し、躯幹、四肢に緊張性、間代性けいれんが間断なく襲来し、けいれんの頻発のため顔色が蒼白となり、また上下顎を固く閉じ、分泌物が喉頭、咽頭のあたりに溜るため、開口器で口腔を開大し、ネブライザー(吸引器)で泡状の液体を吸引しなければならないなど急激に臨床所見が悪化していつた。

(二)  このような原告の症状の変化に対し、ペニシリン、強心剤等の投与を続け、さらにけいれんの発作を鎮静するため、コントミン、オピアート等を投与した結果、午後一〇時ころになつて一且けいれんは止まつたが午後一一時四五分ころより再び顔面等に緊張性のけいれんが間断なく襲来し、脈縛がほとんど触知できないようになり、生命の予防不良を思わせるような非常に重篤な状態に陥つた。このような状態に対し、コーチゾン・アセテイト、水性プロカインペニシリン、フエノバール、オピアート等を継続投与し、翌九月七日午前一時四〇分になつてやつとけいれんは消失した。

(三)  このような状態のなかで診断のため全身状態の調査等、種々の検査が行なわれ、悪心、嘔吐、高熱、けいれんやケルニツヒ症候(髄膜刺激症状の検査―ねかせて足を曲げると痛がつて曲げない)が陽性であること、背髄液所見による細胞数が5776/3で健康人が10/3以下であるのに比べ、顕著に増加しているこしなどから化膿性髄膜炎と診断されたが、当時の原告の病状は右に認定した午後九時ころの両眼瞼筋のれん縮、両眼球のひきつけ、午後九時頃と、同一一時四五分頃の間断なく襲来する四肢の緊張性並びに間代性のけいれん発作、後弓反張、髄液所見上細胞増多が顕著であること、及び前胸部に点状出血班が認められたことなどから、高津教授より担当医に対し警戒(いつ死亡するかわからないという趣旨)が指示される程、非常に重篤な状態にあつた。

二、その後本件発作の直前(九月一七日午前中)までの治療経過及び病状

(一)  以上のように、原告は入院後急速に症状が悪化し、重篤な状態となつたので、時田、福田両医師は九月六日から九日まで四日間にわたり、一緒にあるいは交互に病院に泊り込んで原告の治療に当り、また高津教授も回診は通常週一回位であるのに、原告の場合は特に九月九日まで連日四日間診察を行なうなど緊張した状態が続いた。

(二)  九月七日になつてけいれんは完全に消失したが、依然意識は昏毛状態にあり、熱も四〇度三分あり、脈縛も多く、触知しにくい状態で背髄液もすりガラス様を呈し、翌八日も意識は昏毛状態を脱せず、項部硬直やケルニツヒ症候等髄膜炎の際に現われる症状がいづれも陽性で、左脚、右上下肢の運動は全く不能等、相変らず極めて重篤な状態て高津教授の回診の際も「重症ですね」と述べられた程であつた。

(三)  しかし、このような状態も大量のペニシリン・サイアジン・クロマイ・テラマイ等の使用により同日の午後くらいから、少しづつ薄紙をはぐようによくなつていき、午後五時頃には母親を識別し、牛乳を飲むようになつた。それでもまだ左側の上肢の方に舞踊病運動があり、右手の硬直も依然認められる状態であつた。

(四)  それ以後症状は次第に快方に向い、同月九日頃からは髄液も水様透明となり、一一日には意識も完全に鮮明となり、熱も三七度台に下り、一五日ころには、顔つきもほとんど平生と変りなく、話の種類も増えて、比較的一般状態も好転し、一六日には熱も三七度前後となり、髄液所見も軽快し、一七日も本件発作の起こるまでは同様に一般状態は良く、外見上の全身状態は漸次良くなりつつあつた。

(五)  このように入院当初の重篤な病状は少なくとも外見上急速に快方に向つたが、他方ケルニツヒ症候はいまだ陽性で、、排便時、便器の上にまたがるときに躯幹を曲げるのが嫌がるなど、髄膜炎症状の重要なものの幾つかは残つており、熱も平熱とはいえず、不安定さもあり、また髄液の検査所見も軽快しているものの九月一五日の段階で細胞数は72/3を示し健康時の10/3に比べ、未だ正常域にはなつておらず、安静度についても入院以来九月一二日までは「絶対安静(面会謝絶)、あらゆる刺激を避ける様注意する。」とされていたが九月一三日からは「絶対安静、なるべく刺激を避ける様注意する。」と変更されたが、しかしなお絶対安静が指示されている状態であつた。

(六)  一方、治療の面でも入院以来連日ペニシリンの髄腔内注入(ルンバール)が続けられ、その他一五〇万単位の大量のペニシリンの筋肉注射やペニシリンG(一〇万単位)を一日二回注射し、さらにサイアジンを一日四回、合計〇・四グラム服用させるなど四種類の治療が継続され非常に警戒されていたが、九月一六日になつてルンバールは隔日とするなど薬剤投与も漸次減少させられるようになり、このような状態が続けばやがて退院できるだろうと考えられ、九月一五日頃から家族と時田医師の間で時折り退院のことが話題になるなど漸次快方に向い、明るい話題も出るような状態となつた。

(七)  なお一般に化膿性髄膜炎は髄膜炎自体が治療した場合にも、髄膜炎により髄膜や脳実質に不可逆的病変を残し、それが後遺症となることがある(その場合の後遺症としては、聾症、失明、脳水腫、四肢麻痺、精神薄弱、てんかんなどが考えられ、さらには中枢神経系の血管障害等もありうる)ので九月一四日頃より時田医師によつて原告の視力、聴力、運動障害その他化膿性髄膜炎の後遺症として残る可能性のある各種症状の有無について検査が行なわれたが、九月一四日には足の屈折、開指運動もよくでき、「ラリルレロ、パピプペポ」等の発音も可能となり、同一五日には話の種類もふえてきて又視力薄弱もない様子で、時田医師より原告の家族らに聴覚、視覚を調べるよう指示されたが、一七日には蝉の鳴声、時計の音、水上動物園のアシカの鳴声なども聞え、遠近の物体も識別できるようになつていた。

三、九月一七日のシルバール実施の状況

時田、福田両医師の九月一五日から隔日にルンバールにより、ペニシリンの髄腔内注入を行うという治療方針に基づき、九月一七日に原告に対し、福田医師の手技によりルンバールが実施されたが、その際の状況は次のとおりである。当日、原告は昼食を午後〇時三〇分頃に終つたのであるが、食事中に福田医師が病室に様子を見に来て「学会があるから、これからルンバールをしたい」旨告げ、また食事直後には高橋看護婦が病室に来て食事の終つたことを確めて退室し、その後山岸由紀子がお膳を病室から一五メートル位離れた配膳室にさげに行つて帰つてくると、同時位に福田医師と高橋看護婦がルンバールの準備をして再び病室に来た。原告は福田医師が注射の器具を持つて入つて来たときからルンバールをされることを察して、「いやよ」と言つて逃げまわるようにして暴れたが(数日前から医師などに対して注射のため恐怖をいだいていた)、その間福田医師は原告に注射器を見せないように準備し、一方原告に対しては、母親の三浦玉恵が頭、お手伝いの山岸由紀子が足を押さえ、高橋看護婦がベツトの上にあがつて、原告の腰のあたりに馬乗りになるようにして押えつけて、ベツドの端に背中がくるように海老のように身体を曲げさせて固定したが、原告は「お尻にならがまんするから」とか「おとなしくするから押えないでちようだい」などと言つて泣き叫んでいた。このような状態で福田医師が原告にルンバールを実施したのであるが、一度で穿刺に成功せず何度か穿刺しなおして(この点については後に詳述する)、結局背髄液二ccを排液し、ペニシリン五万単位を髄腔内に注入して午後一時頃ルンバールを終つた。このころには原告は精も根も尽き果てたようにぐつたりしていたが、福田医師は試験管にとつた髄液を窓のところですかしてみて「ちつともにごりがない、すつかりよくなりましたね」と言つて急いで病室を出ていつた。

四、その後、本件発作にいたる経緯

福田医師が帰つた後も原告はぐつたりとして寝ていたが、ルンバール実施から一五分から二〇分位たつて急に激しく嘔吐をはじめ、最初は昼に食べたものを、次には胃液のようなものを二、三回もどした。原告は入院以来それまで一〇回のルンバールを受けているが、一度も嘔吐したことがなかつたので、驚いて三浦玉恵が山岸由紀子に連絡に行かせたところ、高橋看護婦が病室に見にきたが、「ルンバールのあとは嘔吐することがあるから」と言つて帰り、その後高橋看護婦の連絡で時田医師も病室に来たが、原告の様子に吐気以外に異状が認められなかつたので、「ルンバールのあとには、こういうことはよくあるから心配はいらない」と説明して、当日は土曜日であつたため自宅に帰つた。しかしそのあとも原告の容態は好転せず、そのうち顔色が赤くなつたり青くなつたり変色しはじめたが、玉恵や山岸は大丈夫といわれたので、不安に思いながらも原告の様子を見つめていた。一時半すぎ頃に大木ヒサが見舞に来て、原告の様子をみて、普通じやないから早く先生を呼ぶように山岸に指示し、山岸が高橋看護婦に連絡したところ、高橋看護婦の連絡で当直医の小林医師が来て、原告に注射を一本して帰つた。しかしそれでも原告の容態は好転するどころか、ますます具合が悪くなつて、目を見開いたようになつたため、再び山岸由紀子に医師を呼びに行かせたが、治療室には看護婦だけしかおらず、大丈夫といつて見に来ようとせず、山岸由紀子が医局や研究室などを何度も探しに行つても、土曜日であつたため医師も見当らなかつた。そうするうちに、午後三時頃になつて原告がけいれんを始めたので、驚いて再び山岸に呼びに行かせたところ高橋看護婦が来て原告の様子を見てあわてて当直医に連絡に行き、やつと小林医師が病室に来て原告に注射を打つたり、箸にガーゼをまいたものを歯にかませたり、いろいろの処置がとられ、時田、福田両担当医にも連絡がなされ、三時半すぎになつてようやく時田医師が病室に駆けつけて小林医師にかわつて治療を始めた。

五、本件発作の状況とけいれんのとまるまでの経過

同日午後三時四五分ごろより時田医師が小林医師にかわつて原告の治療を始めたが、そのころ原告は主に顔、全身にれん縮様のけいれんが始まつており、意識はほとんど混濁しけいれんが続くため、顔色が非常に悪くなり、唇の色も紫色になり、時々ウオーウオーと怒鳴り、頭部、項部が強直し、後弓反張様の症状を呈していた。これに対し、強心剤、呼吸興奮剤等を投与しながら、けいれんの発作をとめるため、フエノパールコントミンなどの注射をしたが、けいれんが非常に強かつたため容易に止まらず、午後四時一五分になつて、やつと左上下肢のけいれんは止まつた。しかし右半身のけいれんは特に強く、その後さらにオピアートなどの注射を続けたが、依然として右半身のけいれんはその強さ、頻度とも全く変らず、午後五時四〇分になつて最後の強力なけいれん止めの注射、ラボナール0.3グラムを静脈注射したところ、けいれんは止まつたが、同時に副作用のため呼吸停止状態に陥つた。そのため時田医師により五分間人工呼吸が行なわれ、間もなく呼吸は回復したが、顔面のれん縮、右半身のけいれんも再び始まり、さらにフエノバール〇・五cc投与するも止まらず、やむなく最後の手段として呼吸補助器により、人工的に呼吸を行ないながら強力な鎮けい剤を使用することにして、外科に呼吸補助器の手配がなされた。午後七時になつて木本外科より届いた呼吸補助器(レスピレーター)による閉鎖式呼吸装置の下に、ペントバルビタールソーダー七五ミリグラムとサクシン一ccが静脈注射され、ようやくにしてけいれんは終熄した。その後さらに治療が続けられ、午後七時五〇分頃には不安定ながら自発呼吸も出来るようになり、翌一八日午前二時八分にレスピレーターを抜去しスが、以後呼吸も平生となり、けいれんもほとんど起さなくなり、右の発作による症状は漸次快方に向つていつた。しかしこの発作に起因して、発語障害、運動障害などが新たに起つてきた。

六、その後現在に至るまでの経過

(一)  右のようにしてけいれん発作がおさまつた後、同日午後七時五〇分頃、時田医師らは本件発作の原因として脳出血の可能性も考えられると判断し、けいれんによる心臓衰弱防止のためのビタカンフル、アンナカ等の注射と平行して、カチーフ、ヘスペリン、トロンボーゲン等の血管強化剤や止血剤の使用を行ない、さらに化膿性髄膜炎の治療のため、サイアメジンクロロマイセチン等の殺菌剤、細菌抑制剤の投与を続け、その後数日間は主として右のような三本立の治療が行なわれた。しかし九月二六日高津教授より「誘因がはつきりしているのだから、なるべく平静に、皮下の注射もしない方がよい」旨の指示がなされ、それ以前からもルンバールは九月一九日に一度検査のため行われた以外は中止されていたが、同日午後より退院に至るまで右の注射を始め、ほとんどすべての注射による投薬は中止された。そして、同日以降の治療は主として化膿性髄膜炎に対してはクロロマイセチン脳出血に対しては、アドナ錠の経口投与に切りかえられたが、これらの投薬も前者は一〇月三日、後者は一〇月六日にいづれも中止され、その後退院まで主にイミダリン、グルタミン酸を中心にした治療が行なわれた。

(二)  右のような薬剤による治療が進められる一方、九月二一日より右上腕の不全麻痺、右下肢の緊張性麻痺による右半身不随、失語症などの神経症状が顕著となつたため、右の治療に平行して、一般症状が快方に向つた一〇月初旬頃より、右上肢下肢の屈伸、足関節の背側屈伸運動や、飴玉、チユウインガムを咬ませるなど、さらにはマツサージによる機能回復のための処置が実施された。しかし右の処置によつても部分的好転をみただけで、本件発作により惹起された右半身不随、運動性失語症の状態はついに回復しないまま時田医師により、化膿性髄膜炎兼脳出血との最終診断が行なわれ、一一月二日原告は退院した。

(三)  その後も原告は東大病院で診察をうけたり、自宅で低周波治療、光線治療を行い、虎の門の神経科龍病院で中気の治療、鹿教湯温泉で温泉療法、小牧医院で針療法、荒川医師による脳性麻痺治療、松野医師による血液循環療法などを試みてきたが、現在においてもなお、右半身の麻痺、発語障害が残つており、退院後の経過から知能障害、性格障害もみられるに至つている。

(四)  なお本件発作後、原告が退院するまでの間および退院後にも本件発作の原因を調べるためにいろいろの検査が行なわれたが、その概要は次のとおりである。

(イ) 九月一九日に髄液中の細胞数の検査のためルンバールか実施されたが、その結果は細胞数67/3で、多核白血球と単核白血球の比率は五対九五で、本件発作前と比較してほとんど変化なく、むしろやや好転していた。この細胞数というのは、髄液中にふくまれる剥離細胞の数量を示し、髄膜炎症状が重くなると、数値が増加する関係にあり、なおこの細胞中には多核白血球と単核白血球の二種類があり、多核白血球は化膿性髄膜炎の炎症があるときに主として多く発見され、単核白血球は右炎症が治癒していく段階に増加していく傾向を示すもので、細胞数と右二種類の白血球の比率の数値により、化膿性髄膜炎の症状の程度が判断される。入院以来の髄液所見を比較してみると次のとおり。

表〈省略〉

しかしこの結果からは、化膿性髄膜炎のために脳の表面に膿ヨウ(膿の固まり)ができ、それが破れたのが本件発作の原因ではないかという消極的な結論しかでず、脳実質における化膿性髄膜炎の再燃や脳出血がある場合には必ずしも髄液中の細胞数に変化をきたさない場合も多く原因の確定は出来なかつた。

(ロ) 次に脳出血と関連して血管の強度(脆弱性)の検査のため、ルンペルレーデ現象の検査(最高血圧から一〇を引いた血圧で五分間上膊を血圧計のマンシエツトで巻いて圧迫し、そのあとに現出するうつ血点の数により、毛細血管の強度を測定する検査法。本件の場合は血圧測定が不可能な状態にあつたので、一応一〇〇と仮定して実施)が行なわれたが、その結果は次のとおり。

表〈省略〉

右の結果から本件発作当時にも原告の血管には出血性傾向があつたものと認められる(なお正常な場合は右の数値は一五以下であり、数値が大きくなる程、血管の脆弱性も大きくなる)。

(ハ) 脳波検査

原告は東京大学医学部附属病院小児科で昭和三〇年九月一八日(第一回)、同三二年五月二〇日(第二回)、同年七月二七日(第三回)、同三三年三月一七日(第四回)の四回にわたり脳波検査を受けているが、第一回の脳波記録はアーチフアクト(脳波以外の因をもつ波)のため正当な解読が不可能であり、他の三回の脳波所見はいづれも全般的な律動不全と左前頭及び左側頭部の限局性異常波(棘波)を記録しトいる。ことに第三回の脳波所見は、辣波或いは辣徐波結合の称浸性出現の程度が最も著しく、第四回の脳波所見は、波の左側前頭及び側頭部における限局性出現が最も著明であり、なおこれらの限局性の棘波は時に徐波を伴つていて不規則な棘徐波結合を形成している。これら脳波所見は脳機能不全と左側前頭及び側頭を中心とする何らかの病変を想定させる。即ち、右脳波所見によれば病巣部または異常部位は脳実質の左部にあると判断される。

第三、本件発作による原告の病変の原因

原告は本件発作による原告の病変の原因は九月一七日のルンバールによるシヨツクの為に惹起された脳出面によるものと主張するのでこの点について判断するのに、前記第二事実の経過において認定したように、第一に、本件発作は原告の病状が入院当初の重篤な化膿性髄膜炎の病状から漸次快方に向い一般状態も軽快していた段階で突然起つたものであること、第二に本件発作後の九月一九日に行なわれた髄液検査の結果が発作前よりむしろ良い結果を示していたこと、第三に原告には入院当初より出血性傾向があり、本件発作当時も血管が脆弱でなお出血性傾向が認められたこと、第四に、本件発作が突然のけいれんを併う意識混濁で始まつたこと、第五に本件発作の際けいれんが特に右半身に強く現われ、その後右半身不全麻痺が起つたこと、脳波所見によつても脳の異常部位が脳実質の左部にあると判断されること(脳実質左部に病巣がある場合、右半身に異常があらわれる)、第六に、本件発作後少なくとも退院まで主治医の時田医師は原因を脳出血によるものと判断して治療を行なつていたことなどから総合的に判断すれば、本件発作とその後の原告の病変の原因は脳出血によるものと認めるのが相当である。

ところで被告は化膿性髄膜炎は再発率も高く、本件発作当時も原告はケルニツヒ症状等があり予断を許さない状態にあつたもので、本件発作は治療経過中にたまたま発生した化膿性髄膜炎に随伴する脳実質の病変の再燃(概にあつた脳実質における細菌性病変の昂進による患者症状の悪化、以下単に化膿性髄膜炎の再燃という)であると主張するところ、前記第二において認定したように本件発作当時ケルニツヒ症状は陽性であり、その他髄膜炎症状の重要な徴表もいくつか残つており、髄液所見も正常域にはいつているとは言えないなど被告の主張にそう事実が認められ、また〈証拠省略〉の結果によれば、本件発作当時の原告の病状の程度は未だ中等症程度であつたことが認められ、またその段階で化膿性髄膜炎が再燃する可能性についても一般的に言えば、抗生物質療法が行なわれたことにより原因菌が耐性(抗生物質に対し原因菌が対抗力をもつこと)を帯びて来る場合とか、間歇性経過(症状の軽快や増悪が交互に現われてくること)をとり、再燃することも想像されるのであるが、しかし先に認定したように入院以後本件発作当時までの原告の病状の変化をみれば、かなり急速に、しかも一貫して順調に快方に向つていることが認められ、また右鑑定の結果によつても一般的に再燃の可能性を否定はしえないとしながらも極めて少なく通常は予想されないことなどが認められ、本件発作の前後を通じて他に特別に再燃を予想されるような事実も認められない以上、単に九月一七日頃の原告の病状が中等症程度の回復状態にとどまつていたことと、一般に化膿性髄膜炎が再燃の可能性がある病気であることを理由に本件発作が治療経過中に偶然に起つた化膿性髄膜炎に随伴する脳実質の病変の再燃にすぎないとする被告の主張はにわかに採用しえない。

また本件発作に起因して生じた原告の障害に知能障害、性格障害がみられることは当事者間に争いがなく、〈証拠省略〉によれば、一般に脳出血の場合には右のような障害をともなうことは少ないと認められ、これは被告の主張に一つの根拠を与えるものであるが、〈証拠省略〉の結果によれば、脳出血でも通常の場合のように一定部位のみに出血を起こしたものではなく、本件の場合は感染症の経過中に多くみられる脳白質全般の小出血、小血栓等に基くものであると考えられ、とすれば右の知能障害、性格障害をともなつたことも、さらには先に認定した脳波所見中の全般的律動不全が左部の限局性異常波とともに認められることも、右のように脳出血と認定することを何ら予盾するものではない。

さらに、〈証拠省略〉によると本件発作の原因は化膿性髄膜炎の再燃が最も考えられるのであるが、右鑑定は前記四回の脳波記録を重要な拠りどころとして右判定に至つているが、脳波所見の解釈について前記認定と判断を異にするものであるから、右鑑定結果は直ちに採用することは出来ないところであるが、右鑑定においても脳出血の可能性は否定されていない。

また〈証拠省略〉中右脳出血の認定に反する部分は右に判示したところにより、いづれも採用しない。

他に前記脳出血との認定を覆えすに足りるだけフ証拠はない。

第四、本件発作と福田医師の本件ルンバールとの因果関係について。

本件発作およびその原因たる脳出血が九月一七日に福田医師が行つた本件ルンバールのシヨツクによつて生じたものであるか否かについて考えるに、右に認定したように、原告の病状が快方に向いつつあつたところ、福田医師による原告に対する本件ルンバール施行の後わずかに一五分から二〇分位の後に本件発作が起つた(ルンバール施行後一五分ないし二〇分後に始まつた原告の嘔吐が本件発作の前駆的症状であることは、前記認定の右嘔吐後の原告の病変の経過並びに〈証拠省略〉により認められる。この点について〈証拠省略〉もいまだ右認定を覆えすものではない。)経緯に照らすと、他に本件発作の原因となるべき特段の事情が認められない限り右ルンバールにより本件発作および脳出血が生じたものと推定するのが妥当である。しかして他に本件発作の原因とみるべき特段の事情を認める証拠はない。

第五、福田、時田両医師および高津教授の過失について。

そこで本件発作およびそれにともなう前記の各種障害が高津教授、時田、福田両医師の過失に基くものであるかどうかについて判断する。

一、福田保俊医師について

(一)  ルンバール施行上の過失の有無

原告の主張によれば、昭和三〇年九月一七日当時の原告の病状は、快方に向い、退院間近にあり、しかしなお絶対安静でなるべく刺激を避けるよう留意すべき状態であり、また常人に比べ血管が脆弱で泣き叫んだりすれば脳圧が亢進する状態にあつたので、医師としてルンバールに際し、脳圧を刺激しないよう慎重細心な方法をとり、脳圧の急激な変化に伴う脳機能の障害を未然に防止すべき注意義務があるのに、福田医師は当日学会に出席の予定で、しかも会場係の任務を受け持つていたため、心の動揺をきたし、医師としての慎重さに欠け、第一にルンバールは食事直後に施行すれば、頭痛、嘔吐、発熱等の恐れがあるのに、それを知りながら食事直後にルンバールを実施し、第二に、原告がルンバールをいやがつて泣き叫び、半狂乱になつているのに、ルンバールを中止することなく暴れる原告を無理に押えつけてルンバールを強行し、しかも数回にわたつて穿刺に失敗し、そのため、二、三〇分にわたり原告を興奮状態に陥し入れ、さらにルンバールによる髄液の採取及び薬剤の注入に細心の注意を欠き、そのため脳圧に過度の刺激を加え、脆弱な原告の血管に損傷を与え脳出血を生じさせたというので、この点につき順次判断する。

(1)  食事直後にルンバールを実施した点について

九月一七日の原告の昼食時間とルンバール実施時間との関係については、既に第二事実の経過第三項において認定したところであり、昼食の終了が午後〇時三〇分頃、ルンバールの終了が午後一時頃であると認められ、ルンバールの開始時刻は本件全証拠によつても明らかではないが、いずれにしても昼食後三〇分以内に実施された。

ところで、〈証拠省略〉によれば、ルンバール実施後は五から一〇パーセント位に頭痛、悪心、嘔吐、めまい等をきたすことがあり、時には発熱、尿閉等を起こすこともあり、臨床医としては普通、食事直後にルンバールを実施することは避けるものであること、しかしこれは回避した方が望ましいといえるだけであつて、そのために脳出血等重大な脳障害を惹起する原因や誘因となることは考えられないことが認められる。そうだとすれば他に特別の因果関係が認められない以上(この点は原告においても具体的な主張がされていない)、この点に過失があるとは言えない。他に原告の主張を認めるに足りる証拠はない。

(2)  次に本件ルンバールを中止すべきであつたとの主張について判断する。

まず原告の昭和三〇年九月一七日当時の原告の病状にあつて、なおルンバールを行なう必要性があつたか否かについて考えるに、〈証拠省略〉の結果によれば、化膿性髄膜炎の治療には抗生物質であるペニシロリンの大量投与が不可欠であるところ、ペニシリンは血液中や筋肉内等に注射で与えられる場合髄液中に移行しにくく、それに比べ髄液腔内に直接ルンバールにより注入される時には髄液内に比較的高い濃度で長時間存在していることが認められ、軽症の場合はともかく、本件の原告のように重篤な化膿性髄膜炎の場合にはルンバールによるペニシリンの髄腔内注入は最も有効な治療方法と認められる。そこで進んで九月一七日当時においても、なお原告にルンバールを実施する必要性が認められるか否かについて考えねばならないが、前記認定の事実、〈証拠省略〉によれば、九月一七日当時、原告の病状は快方に向つてはいたが、髄液中の細胞数もいまだ正常域にないなど中等症程度であり、一般に抗生物質療法が行なわれている場合には原因菌が耐性を帯びることがあり、又外見良好に見える状態にあつても間歇性経過をたどり再燃することも考えられ、また中等症程度の回復状態でルンバールによるペニシリンの髄腔内直接注入を中止することは、抗生物質により押えられていた残存している病原菌を再び活動させ、しかも抗生物質に対し耐性を帯びた菌により非常に治癒を困難にさせる場合を招来することもないとは言えないのであるから、当時特に原告にルンバールを実施することが不適当とする事実が認められない限り可及的完全治癒を意図する以上、なお九月一七日当時の原告の病状においてルンバールの実施は必要であつたと認められる。原告は、当時原告がルンバールをいやがつて泣き叫びあばれていたから、福田医師は本件ルンバールを中止すべきであつたと主張するが、そのような原告に対してルンバールを実施した場合、原告の病状に悪影響を与えるおそれがあつたことを認めるに足りる証拠はない。そしてたとえ一旦中止して原告の興奮状態がおさまるのを待つたとしても、再度実施する場合、原告は前と同じ状態でルンバールの実施を拒否するであろう。そうすると、ルンバールをいやがつて泣き叫んでいる原告に対して、福田医師がルンバールを中止せず実施したからといつて、この点に過失があるということはできない。

(3)  無理に押えつけて脳圧を亢進させたとの主張について

九月一七日のルンバールの際の原告の様子については第二、事実の経過の第三項に判示したとおりであり、病状が快方に向い意識も明瞭となり、元気のでてきた原告がそれまでになく強く抵抗したことが窺われ、従つてまたルンバールのために原告の体位を固定し保持するのにより多くの力が加えられたことは想像に難くない。しかし原告の体位の保持にあたつたのは、高橋看護婦と原告の母三浦玉恵およびその手伝いの山岸由紀子の三人であり、その点から考えても押えつけ方が暴力的であつたり、通常必要な程度、即ちルンバールを成功させるために原告を固定する必要があるところ、そのために必要な程度を越えていたとは考えられず、他に原告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

(4)  数回穿刺に失敗した点について

九月一七日のルンバールにおいて福田医師が一度で穿刺に成功せず何度かの手技の上で穿刺が行なわれたことは先に判示したところであるが、さらに詳しく検討するに〈証拠省略〉によれば、四、五回あるいは五、六回失敗したと供述しており、また〈証拠省略〉によれば、原告に対する入院以来何度かのルンバールにおいて、一、二度失敗したこともあるかもしれないが、九月一七日に失敗したかどうかは覚えていない旨供述していること、さらに右三浦玉恵の供述から認められる九月一九日のルンバールの際の事情などを総合して考えれば、九月一七日のルンバールで福田医師が一度で穿刺に成功しなかつたものと認められる。

しかし一方右三浦玉恵の供述によれば、何度も失敗して、そのために出血しましたかとの質問に対し、玉恵は原告の頭の方を押えていて、背中が見えなかつたのでよくわからない旨述べていること、原告はルンバールを特に嫌つていたので、可愛相に思つた原告の両親から時田医師らにルンバールをしないでほしい旨九月一七日以前に申入れていたことがあり、そのような点から考えれば、泣き叫ぶ原告を押えていた原告の母三浦玉恵が五、六回も穿刺に失敗するような状態であつたならば、途中で福田医師に抗議するなり、主任医師の時田源一に穿刺を変わるよう主張するなり、何らかの行為が予想されるのであるが、本件証拠によれば、そのような事情は何ら窺われない。結局福田医師が一度で穿刺に成功しなかつたことは認められるが、原告が主張するように数回も失敗したとまでは認められないと言わざるを得ない。なお本件全証拠によつても右ルンバールの失敗以外にこのルンバールに関し特に異常な点などは認められない。

ところで〈証拠省略〉によれば、穿刺に失敗して数回ルンバールの穿刺針を刺しなおしたりすることは、医学診療の日常に稀れでないこと、通常そのために脳障碍を起こすことは可能性の上からも殆んど考えられないことなどが認められ、そうだとすれば、右のルンバールの際の原告の病状において特に通常の穿刺の失敗程度でも脳出血等を惹起する可能性があるとか特段の事情がない限り、単に福田医師が穿刺に失敗したこと、それも右に判示したように失敗の回数、態様等において特に異常が認められない本件の場合に、それをもつて過失があつたとすることはできない。そこで右の特段の事情が存在するか否かについて検討するに、原告の主張は既に詳しく判断したところの、九月一七日当時の原告の病状、安静度についての指示、出血性傾向のあつたことを指摘するだけであり、これらの点から直ちに医学診療の日常に時としてある穿刺の失敗により脳出血等の重大な脳障碍を惹起することを予見することは困難であると認められ、また原告は穿刺の失敗により原告は二、三〇分にわたり興奮状態においたと主張しているが、右に判示した程度の穿刺の失敗により二、三〇分も時間を使うとは考えられず、右主張にそう原告法定代理人三浦玉恵の供述は直ちに措信することを得ず、前記認定の程度の穿刺の失敗でも原告により苦痛を与え、また興奮状態においたことは容易に考えられるところであるが、しかしこれをもつて直ちに被告に過失ありとすることは出来ない。結局ルンバールの失敗による過失はこれを認めることができない。他に原告の主張を認めるに足りる証拠はない。

(5)  髄液の採取および薬剤の注入に細心の注意を欠いたとの主張について

〈証拠省略〉によれば、背髄液は脳と連絡しており、急激な髄液の採取や薬剤の髄腔内注入は脳に影響を及ぼすことがあることが認められ、また九月一七日のルンバールにより髄液二ccを採取し、その後ペニシリン(五万単位)を髄腔内に注入したことは先に判示したところであるが、本件全証拠によつても福田医師が右処置に細心の注意を払わず、そのために脳に影響を及ぼしたと認めるに足りる証拠はない。従つてこの点に関する原告の主張は失当である。

(6)  結論

以上認定したところによれば、原告が福田医師のルンバール施行上の過失と主張する点はいづれもこれを認めることが出来ない。

(二)  看護上の過失の有無

原告は、福田医師はルンバール後の処置に遺漏のないよう学会に出かける前にルンバールを施行した旨を時田医師らに指示連絡等の処置を尽すべきであるのに、それを怠り、そのために原告の病状の変化に対し速やかな且つ適切な治療処置を時田医師をはじめ宿直室や看護婦らにとらせることができず、病状を極めて悪化させ原告に回復不能の障害をもたらしたと主張するのでこの点について考えるに、前記認定の事実及び〈証拠省略〉によれば、本件ルンバールには高橋看護婦が立合つており、全ての経過を知つていること、ルンバールの施行自体は時田医師の指示によること、ルンバールの施行直後福田医師がカルテの温度表欄にチエツクし、小林宿直医によりカルテに「午後一時腰椎穿刺ペニシリン五万注入」と記入されたことが認められ、患者に対する治療処置等の連絡は通常カルテでなすものと考えられるから、原告の主張するようなルンバールを施行した旨の連絡は尽されていたものと考えるのが相当である。原告の主張は異常なルンバールであつたから、その詳細な様子を時田医師らに引継いでおく義務があつたと主張するものと考えられるが、昼食後間もない時間に実施したこと以外に特に異常があつたとは言えないことは先に認定したところであり、この点についてもカルテの記載から推測されるし、高橋看護婦もその経過を知つているのであるから、結局福田医師の引継、連絡が不充分であつたため処置がおくれたとの主張は採ることができない。

二、時田源一医師について

(一)  主任担当医としての看護治療指導上の過失の有無

原告は、主任担当医として時田医師は福田医師の治療処置等について指導監督する責任があると主張するので、この点について判断するに、〈証拠省略〉によれば、原告に対し、時田、福田の両医師が担当医として指名されていたもので、診療は主に時田医師が受持ち、福田医師は主に処置を受持つていたこと、しかし時田医師の方が病院の在籍も長く、全面的な統括の任にあり、治療方針等について時田医師の意見に従つて決定し、福田医師はその指導を受ける立場にあつたものと認められる。しかし原告のこの点に関する主張は福田医師のルンバール実施上の過失を前提とするものであるところ、右過失が認められないことは既に判示したところであるから、原告の主張はその余の点について判断するまでもなく理由がない。

(二)  治療上の過失の有無

原告は本件発作に対する時田医師の治療処置に過失があると主張するので判断するに、原告の主張の第一点は、時田医師が本件発作に対し処置を始めるまでの約二時間半の間、何ら処置がなされなかつたため病状を悪化させたというにあるが、ルンバール後の経過については先に詳しく判示したところであり、またルンバールの実施により脳出血等の惹起されることを予見することは困難な状態にあつたこともすでに判示したところで時田医師がルンバールの後、高橋看護婦よりの連絡で原告を診察した時の原告の病状としては、吐気以外に特に異常がなく、ルンバールの後には嘔吐、吐気等の症状があらわれることは稀でなく、本件全証拠によつても、この段階でその後の発作を予想させる現象があたつものとは認められないので、時田医師が「ルンバールのあとには嘔吐することがある」と説明しただけで土曜日であつたため自宅に帰つたことは、宿直医が居ることも併せ考えれば、この点について時田医師に過失があつたとは認められない。

次に原告の主張の第二は、その後の処置が原告の症状が脳出血によるものであることを看過したままなされたもので、適切な処置とは言えず、そのため原告に対し脳出血の病状を悪化させたというにあるが、本件発作に対する処置については先に判示したところであり、けいれん等の発作に対する処置に不適切あるいは過誤があつたと認めるに足りる証拠は全くない。また原告は本件発作が脳出血によるものと診断されたのは発作後二日たつた九月一九日であり、その間脳出血に対する治療処置がとられていないと主張するが、前記第二事実第六項(一)に判示したように本件発作が一応収束に向つた九月一七日午後七時五〇分ころより脳出血の可能性も考慮され、そのための治療がはじめられており、〈証拠省略〉によれば、発作後の処置は脳出血に対する処置としても手抜りなく行なわれており、適切な処置であつたと認められ、結局時田医師について治療上の過失を認めることはできない。なお原告は右の点について福田医師にも同一の過失があると主張するが、この点も右の理由により認められない。

三、高津忠夫医師について

原告は、高津医師は東大病院小児科の主任教授として入院患者の診断治療に対する最高責任者であり、入院患者に対しても診断治療の責任を負うべき立場にあるところ、福田医師に対する監督指導を怠つたと主張するので、この点について判断するに、右原告の主張は福田医師に原告の主張する様な過失があつたことを前提とするものであるところ、右原告の主張はいずれもこれを認めることが出来ないことは先に判示したとおりであるから、結局その余の点について判断するまでもなく、原告の高津医師に関する主張は理由がないこととなる。

第六、結論

以上に認定してきたように、福田、時田、高津各医師について、原告の主張する過失はいずれもこれを認めることができないので、原告のその主張については判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。

よつて本件請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 地京武人 三浦伊佐雄 井垣敏生)

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